専門家のものにしない。

2021年01月06日 01:51

もう何年か前になるけど、ヨガやスピリチュアルに限らずなにかにつけて海外の先生がくるので、とワークショップに行ったりなんかと先生探しに明け暮れていた時期がわたしにもあった。

グル、導師というか、霊的成長のために導いてくれる誰かを探していたのかもしれない。

簡単に言うと、生き方のお手本みたいな人。
お金を稼ぐとか、伴侶を得るとか幸せな生き方がどうのとかじゃなくて、せっかく産まれたんだから、経済回す以外、身体を使うこと以外に何か面白いことないだろうかって。
増やす、増やすばかりでなんのために増やしているかわからないことや、経験をたくさんすることが豊かさなのか、そもそも何が豊かで何が貧しいのか。色々座標軸を見直してみたくなったのである。

実際、多少必要かもしれない。先生っぽい人。
何人か先生っぽい人が現れたりしたこともあったけど、
でも、私にとっては一生ついていくような先生ではなかった。

私は誰かに人生を委ねたいわけではないのに、コントロールしようとしてくる人も多かった。
あれはだめ、これはだめ。これはいい。
そこに根拠はないし、場所や物からパワーをもらうって発想もあまり好きじゃない。

海外のヨガリトリートまで行って、心の中にグルを宿しなさい、と言われて、うーん。他人を入れるとか、ないなあ。
新しい名前をもらうことを勧められたけど。
どうしても違和感があった。
新しい名前は要らないし、名前にあまり意味はない。

そして、私自身も誰かの弟子ではなかった。


ぶっきらぼうだけど、なんでこんなことを書くかというと私がスピリチュアルなことを書いたり、タロットをやっていると◯◯先生の講座を受けようか悩んでいます、と相談されることが少なくない。

受けてもいいと思うし、うまく当てはまることもあるかもしれないので、私がとめることはできない。

よくなろう、よくしよう、と思うことは悪いことじゃないし。

タイトルの専門家のものにしない、と書いたのは色々な物に興味を持って調べたりするときに、なんでも専門家のものにしすぎだな、と思うことが何度もあったから。

歌を歌うなら音楽を学ぶ、とかなんでも名前や経験や説明ができるつじつまがあれば、それに相応しい私のための場所が用意されていないとおかしい!とある場所に籠城してしまう。

何かに趣きがあることはいいことだけど、それで意固地になって孤立していくのは悲しいなと思う。
ヨガをやっている人といない人、とかスピリチュアルに理解があるかないかとか。
そうやって人を分けてみるようになると本末転倒な気もする。
ニュートラルな位置、というのはなかなか難しいが明るすぎても暗すぎてもできない読書のようにほどよい感じで関わるのがよいのだろう。

そして、それは人によって速度も温度も、何もかもが違う。
みんな違う周波数で生きてる。
誰かになろうとしなくていいし、体裁のために何かをしなくていい。

色々なことがフラットになる世の中がよいのか、でこぼこのままがよいのかはわからないが
見たり疑ったり、おかしいな、と思う気持ちは常に持っておきたいものである。


そういえば、プライベートとごちゃまぜにしていたTwitterのアカウント、コンパクトにお知らせアカウントだけにしました。
心機一転。


とっちらかってるけどおわり。

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